石原都知事と北野武 教育先週、土曜日に放送された「たけしの日本教育白書」という番組。3時間という長丁場の番組だったが、なかなか面白かった。 その中で、「う~ん」と唸らせる2人の発言をとりまとめてご紹介したい。 その前に、この番組は「頭のいい人とは?」というテーマを追い求め 脳の科学的研究やIQ開発機関を番組の中で紹介する時間が長く、実は教育とはなんだと考える番組ではない、 教育を考える番組として見た人もいるではあろうが、私は少なくとも単なるバラエティーでしかなかったと思っている。 また、そんな高尚なテーマを扱えるゲストがあまり呼ばれていない中で 石原東京都知事と北野武の対談では、面白い話がたくさん聞くことができた。 では、都知事と武のちょっといい話は次回にして、まず武のポロッと出た学校の先生のお話。 (私個人がまとめ、言葉を付け足しているので、原文通りの発言ではありません。 武やゲストの発言要約はパープル色です。) 昔は、学校の担任の先生は社会に入ってきた人。 小学校や左官屋や八百屋や電気屋などの社会の中に入ってきた人だ。 先生が蕎麦屋や寿司屋に来れば、一個サービスとか、 ビール一杯出したりしてよろしくと言って迎え入れていた。 ↑ 社会が先生を受け止めていた。 今は、学校と社会と家庭の関係が希薄。 学校がある、家庭がある、お店がある、スーパーがある・・・分離している。 自分の先生は後年になって、「お前の母ちゃんが、赴任した若い頃は飯食わしてくれたり、 洗濯とかしてくれたんだぜ。」と聞かされた。 「だから、父ちゃんが母ちゃんが俺を相手にしてくれないって酒飲んでばっかいたんだよ(笑)」 とジョークもかましていた武。 (先生も給料の大半を書籍を買ったりして毎回すっからかんで、 それを知って武の母さんは、仕方ない先生だねえと飯を食わしてあげたようだ。) ↑ これに対し、タレントゲストの原日出子が 「現在は先生を特別に扱ってはいけないし、先生も特別に行けなくなっている。 気になって生徒の家に家庭訪問して、 ご飯をごちそうになったなんてことがわかると大変だ。」と語る。 (これが普通の感覚の発言だと思う、しかし、社会が先生を受け止めるとは武の母ちゃんのように 先生、土方のあんちゃん、お巡りさん、関係なく、困った時は手助けする、 垣根の低い社会性が昔はあったということだろう。 今のように遠い人とインターネットなどで会話は出来ないし、世界のことなんてよくわからないが 地域のことはよく知っている。肉屋の○○さんが風邪ひいて寝込んだようだとか、 そういう連帯性は昭和何年頃まで生きていたんだろうか?) また武は、社会システムに関して、子供の頃を語った。 例えば、昔は、豆腐屋に行くと「○○ちゃん、元気か」とか普通に隣近所の人と会話して、 その中で怒られたり笑ったりした。 今は、コンビニなどが繁栄、コンビニ行って、「あら、○○ちゃん」とか、あんまり会話しないよな。 (隣近所に顔を知られると良し悪しが出てくる。 手助けもしてくれるし、いろいろなことを大人が教えてくれる、またその地域社会で 悪さをすればすぐ広まるし、普通に隣のおっちゃんに怒られたりしたもんだと思う。 今はお隣さんが誰かも知らない、社会の中で世代の違ういろいろな人に 接触する機会が希薄なのかもしれない。) 社会システム(地域社会という基本的なかたまり)の崩壊ともいえる。 それでは早速、石原都知事登場! 発言から。(パープルが発言まとめ) まず都知事は子供あっての親と語る。⇔子供成長とともに自分も成長した。 自分が冗談で息子に言った事によって、とても傷ついたことを後年になって息子から聞かされる。 その時は、大人はそんなつもりで言って無くても 子供の敏感な心では深い傷になることがあるんだと随分反省した。 これは体験しないとわからないことで、 子供によって親も成長するんだなあと感じたそうだ。 自分の子供や孫との接触により、まだ幼いときに、くだらんから止めろと言わないほうがいいと 結論付ける。幼い孫が駄洒落ばっかり言っているが、面白がって「もうないのか?」と 毎回催促するに従って、駄洒落の質があがってくる。 (これは駄洒落を例としたが、おそらく親から見てくだらないということで 片付けない事が大切だと言いたいのではないか?) 続いて都知事は過激な発言を解き放つ。 学校へ行く必要はないよ。 ↑ 理由 つまんない。近代教育における学校カリキュラムは全然変わってない。 一部の優秀な人をつくりたいだけだよ。芸術系とかの人には、何の足しにもならない。 人間にはいくらでも可能性があるのに、 それを潰そうという方向にある今の教育、型にはめるだけの教育。 小中は徹底的に詰め込み教育でいい、高校くらいから感性が出てくる そのときに派生できるといい。 (都知事の学生時代を知っている人ならよくわかる発言と感じるだろう。 東大という官僚養成機構を暗に批判し、もっと芸術分野も見直せといいたいのだ。 都知事はいつも少し誇大に発言する、 つまり今の教育システムはいくらなんでも偏りがあるだろうと、 ゆとりを与える教育は小中学の頃ではなく、高校あたりから「ゆとり」を与えて感性と向き合う時間を 作ったらどうかと言いたいのではないかと私見ではあるが認識した。) さらに都知事は社会の親の例を出す。 昔は大きくなったらお父さんのようになりたいとか結婚するならお父さんのような人がいいと 言ったり言わせたりしたもんだが、この頃は、若いお母さんが叱る時に、 大きくなったらお父さんみたいになっちゃうよなどと言う。 例えば、電車で靴を履いたまま席に立っている子に、 私が注意すると、母親は嫌な顔して、「こわいおじちゃんが言ってるから脱ごうね」などと言う。 これはおかしい、母親の責任で、叱って靴を脱がせればいいだけだろうに。 (父親の家庭での立場が大きく転換したのが戦後教育が始まった世代が 親になった頃からだと感じる。まだ祖父母と同居したりしていた人は分別という言葉を認識していた、 認識させられていたと思うが、核家族化により親子関係が上下ではなく横のライン、 友達化したのも影響したのか?友達には好かれたいもの、 叱ることはできないよなあと私見として感じる。 お父さんみたいになっちゃうよって言われて、それが叱り言葉になってしまうのは悲しいな。) 今回の記事は長いので、ここで一旦CMで~す。。。 もう少しだけ、お付き合いください。 続いて、たけしの発言、これは共感できた。 因数分解が出来る人は、余計な事を書かない、ファクターだけを取り出すことができる。 例えば Xa+Xb+Xc というのは、X=殺人者とする、aとbとcは被害者とすると、 Xがaを銃で殺し、bをナイフで殺し、cを・・・ でもこれは、X(a+b+c)であって、Xという殺人者が何かを持って、3人殺せば事足りる。 つまり、X と a、b、c を設定したらそのファクターだけを書き、あとは想像に任せるのだ。 殺し方がどうとかこうとか、いちいち書くのもなんだかなあ。 (私見だが、これは武の映画に色濃く出ていると思う。 シーン説明しかない台本を渡し、セリフは当日直前、コロコロ変わる。 つまり武はファクターを設定したら、あとは俳優さん、あなたがたの感性にお任せしますという、 ある意味、役者冥利に尽きるシナリオの立て方といえる。 またこの因数分解、ファクターを重要とする考えは非常に共感できる。 私も、学生のころから、これは思ってたなあ。 相手に伝えたいことを書いたり話したりする際に、ポイントはなにか? そしてそのポイントを修飾して相手の気持ちを高揚させたり、こちらに共感させたりできるのだ。 ポイントだけをぶれさせなければ、後は祭りを待つだけではないか?) さらにキレキレの、たけし発言は続く。 少なくとも作法ってあるじゃない、昔はそういった作法を教えてくれてた、今はどうだろう。 畳の縁って踏んじゃダメだって言われるわけ、継ぎ目から刀が出てきて刺されてしまう、 縁起が悪いんだよって言われるでしょ、縁起が悪いって言われるとやっぱりやらないんだな。 シルバーシートの話なんだが、普通に考えれば、あんなシート要らないはず、 だって目上やちょっと身体の不自由な人が目の前に来たら、立つでしょ、それが当たり前、 なんで特別に名前までつけて用意しなくちゃならないのか? 本当は街中にある席全部がシルバーシートだろうに。 ああいうものを用意した結果、 逆にシルバーシート以外は立たなくてもいいんだと錯覚してしまっている。 (もう、この辺は私の意見など不要。この記事を読んでくれた方がそれぞれ 感じるままに受け止めていただいていいと思います。) ラストに番組にケチをひとつ、都知事やたけしの対談は良かったが 如何せん女性である母親からの発言が構成されてなかった。 都知事くらいの年齢の女性や、たけしくらいの年齢の女性にも出てもらえたら もっといろんな話が聞けたと感ずる。 親は父と母であり、祖父母との関係もこれから重要な現実として浮かび上がると思うのだが・・・ いかが? 日記内にて 11月16日 17日 に 2回に分けて掲載 ↑ ↑ ご一読ありがとうございます、是非ともクリックをお願い致します。 ジャンル別一覧
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